昨日の日記

 これからは三十分ごとになにしたか記しておく。
 本を読むときには、問いと応答を無理にでも見つける。





九時起き 携帯
     
       ・携帯、歯磨き

十時  珈琲、ヨーグルト、レーズンフランス
     
       ・スーザンゾンダク、○

十一時 携帯、「「見る」と「知る」」

   ・日記を書く、三分クッキングがステーキサラダだった、きょうとのサンチョ?に行ってみたい人生だった

十二時 うんこ、田中引き続き読む


○、○


 ここからは記録していない。これから三十分ごとになにしたか記しておく癖をつけてみる。

 担々麺とチャーシュー丼食べた。替え玉もした。担々麺のごまの風味がカップラーメンとはしっかり違ってうまい。酸味もある。チャーシュー丼はだめ。相変わらず食べたすぐ後に腹が減った。

 本屋で漫画二冊。コンビニで食べ物とアマゾンカードを大量に買う。そのアマゾンカードで、視覚文学超講義?買った。明日には届くはず。「すべてではない」はまだ届いていない。いやな感じがしている。


 『哲学談義とその逸脱』面白いエッセイて感じだった。楽しく読める。評者が書いているように、逸脱ってのが重要?。ドゥルーズの、哲学によって哲学から出ていくこと(『記号と事件』?)、と近いのか?とも思ったが、あくまでもこっちは哲学外?にも範囲を広げていき、ドゥルーズは他者からの受動性のままなこと、とかがとりあえず違うようである。「「見る」と「知る」」と「ペンクラブ」なんちゃらをよんだ。

 ・「見る~」の方は、カントの主観性によって主観性を超えていくさまの文章を、特に記憶している。
 概要は、見ると知るをひとまずざっくりと分け、学問特に哲学の知の比較的な弱さを科学的知の強さとのコントラストを強調する。科学は経験可能で哲学は経験不可など。この経験不可の擁護はどんなふうにしていたのか忘れた、多様性ではなかったはずです。。。
 エレンコス(吟味なんちゃら)の使用。
 問いは、文章中にあった。が忘れた。見ると知るの違い、だったのか?
 応答は、見ると知るは違い、更に知るにも経験―科学知と経験不可―哲学知があるとのこと。

 ・「ペンクラブ」なんちゃら

 戦時中にラジオでは笑い声を(大袈裟に)入れていた。緊張した(笑い)と余裕ある笑い。