別の、ユリイカ

 ・別の

 ◎接続させる機械。他のテキストへ。
 病―精神分析―障がい―貧しさ、等の系。これにより、分身―障がい者―並走(ガタリ―小泉―リレー?)の線、世界―病の線、が少し見えてきた。
 特に方法論としての、診断概念。診断哲学。と思ったが、正確に言えば、テキストにあるように言えば、「臨床哲学」ですね。および、人生論。。。
 「パラリンピック人文学」―知的障害者―ハラスメント(―ウミウシ?。ウミウシは「大したコミュニケーションはしない」、「すれ違い」?)

 ◎他のテキストへ向かう/開かれた箴言集だとして、プレソクと、(共に?、)考えるとするとどうなるか?プレソクはすでにザバイブしている、が、すでに欠けている。
 メイヤスーの方法、ドゥルーズのテキストをプレソクと化させる。これと共にするとどうなるか?

 ○デリダのボケとツッコミ。概念の創造―ボケ
 ○批評―前提への信頼を放棄させること
 ○✕「又」とはどういう意味か?
 ○「俺」ではなくて「僕」。その後に来る(ボケるための?)「おいら」。主語の問題。
 ○英米幻想(―ファンタスム)
 ○ポー―ドイル(ホームズ)から。
 ポー―エンタメ―現代詩→密室性。。。

 ○「気合い」。これは重要である。
 さらに、クリエイティブな自己啓発は、気合いの「抜き」方をうまく織り込んでいる。多少適当じゃないと。

 ◎「うまく」―「適当」―(「すぎない」?)

 ○「病気」
 ○尿道
 ○「アホにならないとできない創造」

 ◎「見なかったこと」にするべき。こんなこと出来るのか???と思う。と、ともに一番興味のあるところ。
 どうすれば「見なかったことにする」ことが出来るのか、仮に、質/量を受けいれるとするのが背景だとしても。。。
 しかし、「見なかったことにする」ってのは、実践としてある程度すでに出来ている/しまっている感覚は持っている。すれ違い、場合によっては無視。。。

 ○「諸々の俗情を変態させること」
 ○やばい受動性=self-shattering(自己粉砕)
 ○〈性関係の非規範的なシャッフル〉
 ○ハイブリッド、と、サイボーグ
 ○デリダ―「純粋な贈与」、と、ドゥルーズ&ガタリ―「純粋な受贈」ないし「恩義の滅却」
 ○健康すぎる『暇と退屈』での「環世界移動能力」の話
 ○〈形成的で複数的な否定性〉
 
 ◎離陸と着陸、と、飛ばない飛行機

 ○「また、漫画のコマのように」、「数学のある分野に集中すること「も」そうである」。
 ここでの羅列の仕方は、名前を忘れた元スポーツライターとは別な感じがする。。。

 ○「ある程度でなだめる」
 ○「「他でもない」ということは、そもそも非意味的切断である」
 ○「支援されてしまう」

 ○両極の過剰の「節約」



 ●追記

 ◎初見で注に驚いた。
 ◎ページの付いているページの割合はどのくらいあるのか?はじめの方は多く、次第に少なくなっていった気がするが、どうか。もしそれならば少なくとも序破急にはならないはずで、なんになるのか。
 ◎前作のエピグラフは素晴らしかったが、今作のエピグラフはどうか?
 そもそもあるのか?あるとしたら、中古のテーブル?このくらいで切り上げる。

 ○ヘーゲルの整形手術をするようなひとに倒錯と言われたら、それはどう受け取めたのか(受け止めるべき?だったのか)。




 ・ユリイカについて

 ◎まず巻頭言は忘れた、印象も思い出せない、しかし見返すべきだとは思っている。
 ◎で討議。小泉の文体は、傾向として不可避なものになりつつあるような気がした。ここの線は太いので別の線を求めるべき、に感じる。今は余りに比が多い。
 訳「お前の言っていることは「マジカル」」。
 しかし千葉がイメージよりも年齢が高いことはたまに思い出すべきかも。おっさんです。
 
 ◎また、ビッグデータ。。。これも現に・すでにそうなっている問題なのだろうが、ついていけない感がある。
 顔のデータベース化。

 ◎千葉はここでも「有限化」について語っている。「有限会社」とは。
 
 ◎絵画と彫刻の違い。面白い。

 ○顔、交差点。

 ○「狂気顔」は笑った。しかしまじにそういうことなのでしょう。



 他の論考の多くは読めなかった。うんざりしてしまう。しかし、阿部寛についてのと蘆田のは読めた。特に蘆田は面白かった。アメリカ哲学の人のも読んだ、筆者が若かったので、理由はそれだけかもしれない。
 ◎阿部の方。結局顔について語ることは、顔=鏡に他ならないんじゃないのか、と今は思ってしまう。平倉―ゴダールの援用でそう済ませたくなってしまう。交差点―監督と役者にしても、顔=鏡でゴリ押しするとどうなるのか?
 ◎蘆田の方。パッパッパって感じ。簡単に・フラットに記述が前後を切り替わる。もっと長い論考ではどうなるのか?
 しかし、「まずは成田陵というモデルをイケメンと呼べるのか否か、それを確認しておこう。」から始まる段落の素人感もしくは不要感は、ネガティブに/素直には感じないので、ネガティブではなくこの段落について思うのは何だろうか?印象深かった一段ですね。
 内容としては、デリダ―枠―フレーム、と、事実―同一化による自己崇拝、とかを簡単に切り出して終わりにしとく。